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太平の世

戦乱もなくなった江戸時代、人々は農業や商工業に努める世の中になりました。赤村は当時小倉藩の統括にあり、藩の生産基盤増進のため農業や商工業の振興が盛んでした。当時の田川地域の基幹産業は、農業や商工業であり、後に盛んになる石炭産業はこのとき藩の統制化ありました。このような中、筑豊地方にあって唯一石炭の産出に恵まれなかった赤村は、豊かな農産地として知られるようになりました。つまり、赤村の基幹産業は農業で、その農業の良し悪しは村の行く末に影響します。人々は自然災害や天候に恵まれ、豊作を祈る思いは今も昔も変わりありません。こうした背景があり、赤村にはこの時代に生まれたまつりが、今も受け継がれています。

光明寺の梵鐘

こうみょうじのぼんしょう

古くからのお寺も数ある赤村には、人々の思いが込められた文化遺産があります。光明寺梵鐘(村指定文化財)は、日本では珍しい中国製の梵鐘です。日本には数例しか存在しない明代(明とは中国王朝で、日本の鎌倉・室町時代に存在した帝国)のものでかなり貴重です。

光明八幡神社神幸祭

こうみょうはちまんじんじゃじんこうさい

上赤地区に伝わる光明八幡神幸祭は、今の形となったのは安永三(1774)年とされますが、現在の祭台帳は嘉永三(1850)年からの記述が現存します。神社の起源はさらに古いとされ、由緒ある村の行事として人々に親しまれております。祭りは我鹿八幡神幸祭と同じ五月四・五日に開かれ田植え前の村を彩ります。

秋葉神社神社幸祭

あきばじんじゃじんこうさい

油須原地区には秋葉神社神幸祭という祭が伝わっております。この祭は、天保九(1838)年油須原地区で大火が起こり、集落のほとんどを焼き尽くしてしまったことに始まります。二度とこのような惨状を起こすまいという人々の思いが、「天下泰平」「国家安泰」を祈る祭という形になりました。現在は農繁期の落ち着く十月の第一週末にとりおこなわれます。

我鹿神社幸祭

あかじんじゃじんこうさい

赤村の春の祭りとして代表的な我鹿八幡神幸祭は、元和元(1615)年小倉藩主の細川忠興が神社を現在の地に移す際におこなわれた神事が起源とされております。現在は下赤地区の山笠保存会が中心となって、五月四・五日におこなわれる神幸行事をとりおこなっております。

大内田神楽

おおうちだかぐら

(国重要文化財豊前岩戸神楽のひとつ)。その始まりは明暦(1655)年、牛馬の疫病に困り果てた村民が大祖神社に願をかけたことにあります。その際、おみくじを引いたところ「四月に神楽をせよ」という神意が示されたそうです。これにより大内田地区では家が三軒になるまで四月に神楽をすることとなりました。明治から大正にかけて、築上町の赤幡神楽(県指定無形民俗文化財)から指導を受け現在の形となりました。

正福寺

しょうふくじ

正福寺楼門も村内では古くからの建物で、棟札には寛政七(1795)年の銘が刻まれます。多くの村民たちに支えられたための賜物と言えるものです。

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